Now Loading...

tsukuru*hito (ツクルヒト)

tsukuruhito file #8

ピンチを、チャンスに。骨太な会社のつくり方。

やまと興業株式会社 / 代表取締役社長 / 小杉 昌弘

Webメディアの企画・運営を手掛ける『PrmaCeed』の代表・岩田彰人が、さまざまな業界のキーパーソンと対談するこの企画。 今回のお相手は、二輪・四輪のコントロールケーブル製造やパイプ加工をはじめ、LEDペンライトや粉末茶の開発、さらに飲食店の経営まで多角的な事業展開を進める『やまと興業』 の代表取締役社長・小杉昌弘さんです。 「そろばんが得意だったから、小学生で原価計算をしていた」 「自分が知らないうちに、勝手に代表印が作られていた」 「LED事業に進出したのは、世の中を明るくするため」 終始ニコニコ顔で語ってくれる、御年74歳の小杉さん。その話には会社経営の醍醐味が詰まっており、いかなるピンチもチャンスに変えてきた前向きな姿勢は社会人として誰もが学ぶべきもの。 小杉さんの話から、ぜひこれからの時代を生き抜くヒントを得てください。

Chapter 1脈々と受け継がれる会社の土台は、農機具づくりの創意工夫。

岩田本日はやまと興業の歴史と、小杉さんが歩んでこられた人生についてお話を伺わせていただきます。最初に、やまと興業の創業から教えてください。

小杉父親(先代)が1944年に創業し、はじめは農機具の製造・販売をしていました。くわ・すき・ナタ等を鉄で赤らめて、ハンマーで叩いて何でも作っていましたね。でね、私も1944年生まれなんですよ。会社の年齢と私の年齢が同じです。

岩田そうなんですか。まさに会社の歴史と共に歩んでこられたんですね。

小杉会社として最初の転機が訪れたのは、1955年。ヤマハ発動機が会社のすぐ近くにできて、協力工場として車体の組み立てやエンジンラインの治具の製作を任されるようになったんです。

岩田その頃、小杉さんは小学生ですよね。どんな子供だったんですか?

小杉そろばんを習っていたので、計算が得意だったんですよ。それで月末になると原価計算をしていました。先代から工数を書いた紙を渡され、そこから原価と利益を記入し、請求書を発行する手伝いをしていましたね。

岩田ということは、小学生のうちから会社の仕事に携わっていたんですね。

小杉その頃は言われるままに計算していただけですが、その作業のおかげで「商売人の家に生まれた」という意識は強く持っていましたね。私が中学生になってからヤマハとの取引がより活発になり、オートバイのスピード操作やブレーキを確実に伝えるコントロールケーブルの製造もスタートしました。

岩田ヤマハとは創業時からの付き合いとしても、少しずつ依頼が増えていった理由は何でしょう?

小杉先代は毎日ヤマハに通って細かく要望を聞き、製品の使い心地を高めていきました。その熱心さが買われて、ヤマハの部品づくりを止める企業から設備を譲り受け、技術指導まで受けることになったんです。そして、その後も譲り受けた設備を改良し続けてニーズに応えていきました。

岩田機械設備を改良できたのは、やはり自分たちで農機具を作ってきた経験が活きたんですか?

小杉それはとても大きかったですね。よそができないことも、「創意工夫で何とかする」というのが創業時からのモットーなんです。ただ、いろいろ考えすぎて時間がかかるようでは意味がない。どんなものが欲しいのか聞き出したら、未完成でも良いのでまずは形を作ってみるんです。その上で設計者とやり取りして詳細を詰めていけば短時間で完成度が高まりますし、製作過程で設計者との気持ちもつながっていくんです。

1 2 3 4 5

Tsukuruhito

小杉 昌弘

小杉 昌弘

やまと興業株式会社
代表取締役社長

Company

やまと興業株式会社

自動車部品事業、エンターテイメント事業を専門とする会社です。

この記事を書いたライター

是永 真人

是永 真人 ( これなが まさと )